90年代JPOPの同時代共有感覚
【interlude #001】 /2018.12.06_wrote
なぜこのブログを書こうと思ったのか。
なぜ90年代を取り上げようと思ったのか。
今の音楽シーンと90年代の音楽シーンを比較してみることで一度整理してみたい。
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<2019年の音楽模様>
2019年。
今でも、ヒット曲は生まれ続けている。
動画サイトからデビューした日本酒みたいな名前の背の高い人や、
アディダスジャージ着て歌う人。
役者としても活躍しながら自ら歌うドラマのエンディング曲で難しい振り付けを踊る人。
LINEリリックMVでメンヘラ臭たっぷりでも女子共感をかっさらう人。
全然、というか前前…棒読みだったり極みだったりさらにはピエロの格好含めてまるっと流行りの声質の人々。
さらには
マトリックスのエージェントスミスのように増殖し続けるアイドルグループや、
同じく増殖するエージェントスミスをいかつくしたように増えてレモンサワーで乾杯のダンスユニットとか。
90年代の伝説のアーティストとコラボする人たち。
長年の休止を経て復活する人。
そしてもちろん、90年代から第一線を走り続ける人たち。
邦楽と洋楽の境もあまり無くなったように思える。
当初は洋楽推しだったJ-waveにしても、
邦楽の扱いが大幅に変わってきていると言えるだろう。
事実、2000年に椎名林檎が初めて1位を取って以来、
スガシカオ、平井堅あたりが続き、
その辺りから邦楽アーティストのランキング進出率は高まっている。
(・懐かしいですねぇ。この頃からJ-waveの邦楽上位率が上がっていったような気がします)
まさに多様性社会。
YoutubeやSNSの爆発的普及により
誰もが同じ曲を聴く必要は無くなった。
自分がいいと思う曲を自分で掘り下げていけば関連の情報はあるし、
好みでない音楽が暴力的に入り込んでくるような社会現象もあまりない。
よく、昔ほどのヒットが生まれないという記事があるが、当たり前の話である。
他人の聴く曲と自分の聴く曲が違うのだから、マスなんてものが存在しないのだ。
これは音楽にとってはとても健全な状況なのだと思う。
本と同じように、誰かと同じものを読む必要はないし、
自分の時間を自分の好きな音で埋められるのは音楽の醍醐味だ。
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<共有情報としての90年代JPOP>
これに対し90年代(=特にその時代に10代だった人間として)はというと、
卑下するつもりはないが、
もう少し、メディアに与えられたものを受容する傾向が強かったように思う。
売れている曲。話題のCM曲。ラジオでオススメされる曲。
甘い味でも辛い味でも苦い味でもとりあえず口に入れてみてからという具合である。
もちろん、その結果、
自分の好きな音楽を深掘りしたり、
自分なりの感度で気になる音楽を見つけたりはするが、
ネットにいくらでも音楽がある時代ではない。
いざ、探そうとすると手段は店舗か友人ぐらいだ。
そこには熱量に加えてある程度の経済的余裕と時間的余裕が必要になる。
結果、
音楽そのものよりも、
もしろメディアによる情報を頼りに、みんながある程度同じ曲を聴く。
という文化が形成される。
その結果、
音楽は音楽的価値というよりも、
「その当時の時代を他人と共有するツール」としての価値を持つのだ。
「うわー、この曲の時って、こうだったよね!」
「あー、あのドラマ見てた?」
「誰々なんてのもいたよねー」
90年代JPOPをシャワーのように浴びて育った
同年代の友人と飲んでいて90年代の曲がかかると、大抵こんな感じになる。
アイドルも歌謡曲もR&Bもヒップホップも見境なく・・・というと聞こえは悪いが、
同じ時代に同じ音楽を記憶する感覚、
この同時代共有感覚こそが、JPOPの価値だと思う。
この感覚を整理して、まとめてみたい。
簡単に言ってしまうと、これがブログを書こうと思った理由であり、
おっさんとはこうやって醸成されていくのである。