新宿系というブルーオーシャンと武装癖
【#045 歌舞伎町の女王 / 椎名林檎 (98年)】 の考察
東京オリンピックの演出を手がける椎名林檎の2枚目のシングル。
その独特の世界観や文学的歌詞は「新宿系」というジャンルを確立した。
この曲が、当時の10代にどのように映ったのかを考察してみたい。
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<花の98年組における強烈なセルフブランディング>
98年は錚々たる女性アーティストがデビューしている。
宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、MISIA、モーニング娘。、浜崎あゆみ・・・。
似たり寄ったりの中途半端個性が乱立する中にデビューした彼女たちは誰もが個性豊かでオリジナリティに溢れているが、
その中でも椎名林檎の存在感は、小気味いいくらいまで突き抜けていた。
インパクトのあるアーティスト名。
独特の宛字。クセのある声と「ら行」の巻き舌。
その存在感はデビュー曲の「幸福論」から光っていたが、
世の中に鮮烈にインパクトを残すことになったのは、
やはり二枚目のシングルであるこの曲であろう。
昭和を感じさせる世界観。
性的な描写にもズカズカ踏み込んでいく文学性、
蓋をされて日の目を浴びない世界にスポットライトを当てて歌う歌詞は、
「性」というより、「生」を存分に感じさせるものであり、
巷に溢れる安っぽい愛の歌より、肉体的で艶かしく、生臭い。。
十五になったあたしを置いて女王は消えた
毎週金曜日に来てた 男と暮らすのだろう
「一度栄えしものでも必ずや衰えゆく」
同情を欲した時に全てを失うだろう
早熟すぎるくらいに人生を達観したような歌詞の数々。
その中で強く生きようというその姿勢は、
そのまま、媚びることなく強烈に自分の世界観を押し出す椎名林檎の姿に重なり、
のちに新宿系と呼ばれる椎名林檎のセルフブランドを作り上げていく。
こうして19歳のほとばしる才能は
文学好きやサブカルチャー界隈を巻き込み熱狂的な人気を生み出すことになっていったのだ。
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<新宿系というブルーオーシャンと武装癖>
初期の椎名林檎を語る上で欠かせない言葉、「新宿系」だが、
そもそもは、この楽曲タイトルにかけて彼女が自身を
「新宿系自作自演屋」と称したことが始まりとされる。
「新宿の人間は生臭くて、自己嫌悪に陥りながらも何かを求めて必死に生きてる。その見えない真実を追い求めるのが新宿系」「小奇麗な渋谷系と差別化するため」(wikipedia)
新宿系という言葉に対しての当初の彼女の談である。
カテゴリーに名前がつくことによって、ブルーオーシャンに飛び込み
彼女をカリスマ的存在に押し上げる後押しとなったのは事実だろうが、
自身で名乗っている10代のこじらせ感が同居しているのもまた事実。
強気で偉そうな物言いや
肩で風を切るように好戦的な振る舞いは、
容姿を伴う彼女が楽曲を歪んだ形で理解されたくないことの裏返しでもある。
そそこには、そうしないと守れない世界観があったのだろう。
容姿や年齢、性別だけで判断されることへの反骨精神は、
文字通り彼女の「武装」を加速さえていく。*1。
髪早熟な彼女は楽曲を守るために「椎名林檎」を演じ続けたのだ。
のちに、彼女は「新宿系」他に対する同様の質問に対し、
「ジャンルは何系か?という質問にいちいち答えるのが面倒臭かったから」(wikipedia)
と、答えている。
今の「椎名林檎」には楽曲以外のところでその種明かしをするのは野暮なのだろう。
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<MM/SSと初期衝動>
その後、狙いすましたかのように「ここでキスして。」を
オリコンTOP10内に送り込みヒットチャートの常連となっていく椎名林檎。
その後は他のアーティストへの楽曲提供や、
東京事変としてのバンド活動を経て、
映画「さくらん」での音楽監督などを通じ、
プレイヤーでありながら
次第に音楽全体を司る立場へとその活動を広げていくことになるのだが、
やはり彼女の初期の活動の魅力は
この2枚のアルバムに集約されていると言ってもいいだろう。
「無罪モラトリアム」「勝訴ストリップ」
2作で対をなすような形のアルバムには、
タイトル、曲順、ジャケットのアートディレクション等、
すべてを自分の世界観で作り上げたかった彼女の尖った初期衝動が存分に詰まっている。
2020年、オリンピックで演出を務めることになる椎名林檎だが、
90年代の終わりに彼女が駆け抜けた軌跡はやはり、特別だ。